メニュー

西小学校東小学校北小学校南小学校相野山小学校香久山小学校梨の木小学校赤池小学校竹の山小学校日進中学校「日中健児のつぶやき」
学校の概要周辺地図年間・月間予定表交通安全学校からの文書学校からの各種おたよりR2 部活動方針部活動だよりリンクリストPTA活動日中健児のつぶやき(H30)日中健児のつぶやき(R1)日中健児のつぶやき(R2)
日進西中学校日進東中学校日進北中学校作品募集のお知らせ

日誌


2019/10/22

10月22日(火)同じ体験を

Tweet ThisSend to Facebook | by 日進中学校管理者
「すべての発言が承認されるとしたら・・・」
                魂の編集長 水谷謹人より
 もう20年以上も昔のことである。作家の遠藤周作さんが生前、講演の中でご自身の著書が大学入試の現代国語に採用された時の話をされた。
  その問題を遠藤さんも解いてみた。ある文章に傍線が引いてあり、「この時、主人公はどう感じたか、次の四つの中から答えよ」という問いがあった。
  答え合わせをしたら遠藤さんの解答は不正解だった。遠藤さんは「作者は俺だよ。なんで俺の答えが違うんだ?」と会場を笑わせていた。実は遠藤さん、四つすべてに丸を付けたのだ。
  「人間というのはいろんなことを感じるんだ。一つに絞るなんてできないんだ」と遠藤さんは話していた。
  この話を思い出したのは、先日、小学校の元校長で、千葉経済大学短期大学部の非常勤講師・塚本幸男さんから贈られてきた結城花梨(かりん)著『絵で見える小説的な授業の世界』(一莖書房・いっけいしょぼう)を読んだからである。
  6年前、早稲田大学の4年生だった結城さんは、とある教育研究会で卒業論文を発表することになった。彼女の卒論は、塚本さんが考案した「小説的な授業」を題材にしたものだった。事前に塚本さんの前で発表したら「内容が少し硬い。もっと自由にやりましょう。絵も入れましょう」と助言された。
  映画サークルでアニメーション制作を担当していた結城さんは、得意な絵をふんだんに入れた資料に作り直した。
  結城さんには小学生の頃、国語の授業で忘れられない思い出がある。
  その日の授業の教材は、児童文学作家・今西祐行(すけゆき)の『一つの花』だった。
  主人公は2歳くらいの「ゆみ子」。最初に覚えた言葉が「一つだけちょうだい」だった。食べ物が乏しかった戦時中、ゆみ子がこの言葉を言うと、母親は「じゃ一つだけね」と言って自分の分の食べ物を分けてくれた。父親が出征する日も、「一つだけちょうだい」を繰り返し、父親のおにぎりを全部食べてしまった。
  授業では、この「ゆみ子」についてどう思うかを話し合った。いろんな意見が出てきた中に「わがままな子」という意見もあった。結城さんは自分と同じ意見が出てホッとした。ところが先生は「わがままとは違うんですね」と言った。
  結城さんは「えっ、なんで?」と思った。だが「なぜわがままではないのか」という説明はなく、授業は先に進んでしまった。自分の感じたことが「間違い」だったことに結城さんはショックを受けた。
  その後、結城さんは無意識に「授業とは自分の気持ちや感じたことを言うのではなく、先生が求めている『正解』を言わなきゃいけないのだ」と思うようになった。この記憶が、塚本さんの「小説的な授業」と出会って蘇った。
  長年の教員生活から塚本さんが辿り着いたのは、「授業とは事前に『正解』が決まっているものではなく、教師と子どもたちによって作られるもので、誰も結末が予想できないものだ」ということ。つまり、創造的であり想像的である。だから「小説的な授業」と名付けた。
  登山に例えると、「山頂」というゴールがあり、そこに辿り着くルートが決まっていて、そこから外れると正しいルートに導くのが授業であると思われている。しかし、塚本さんは「山頂を目指すものではなく、子どもと一緒に山に入って川や花や木について学ぶことを楽しむ。その時感じたことはすべて必然性があり肯定される。これが授業ではないか」と言う。
  そしてこう続ける。「教師がなぜ『正解』から外れた発言を『間違い』と指摘するのか。それは授業が自分の意図したものではなくなるという『恐れ』を感じるから」
  確かに、自分の発言に対して先生から「そう思ったのか。すごいな。先生も気が付かなかったよ」と言われると自信になるだろう。正解を言わなきゃいけないという「縛り」から解放されると、自由に考えたり、発言できるだろう。この「小説的」という言葉にはワクワク感がある。子どもの頃、こんな授業を受けたかった。

ほぼ99%は「同じ意見」です。
私も同じ感想を持った一人です。
「どうして自分が感じた感想がダメなのか?」
「どうして先生が言っていることが『正解』なのか?」
私には、まったく分かりませんでした。
ひょっとして、先生は「その作者の当時に戻って聞いてきた?」のか?
そんなことはできるはずはない?
だったら、どうして?私の感じたことを「不正解」と言うのか分かりませんでした。
それ以来、国語という教科が嫌いになりました。
違うところといったら、
「教師がなぜ『正解』から外れた発言を『間違い』と指摘するのか?」
「それは授業が自分の意図したものではなくなるという『恐れ』を感じるから」という部分です。
私的には、何かを『正解』にしないと入学試験で『◎』をつけられないから」では・・・・・。
それぞれの人が「感じたこと」「そう思ったこと」がすべて正解になれば、
きっと、現代の課題である「図書離れ」「活字離れ」が止まると思うのですが・・・・??
みなさん!どうでしょうか??

08:30 | 投票する | 投票数(11) | コメント(0)