先日、日文が主催する道徳セミナーに参加してきました。2名の講師の先生の話を聞かせていただきましたが、幾央大学の島恒生先生のお話が私としてはすごく納得する内容だったので、お伝えしたいと思います。島先生は元小学校教諭で、現在幾央大学大学院で教鞭をとっていらっしゃいます。「中央教育審議会道徳教育専門部会」専門委員や、「道徳教育に係る評価等の在り方に関する専門家会議」委員、平成30年度実施の「小学校学習指導要領解説特別の教科道徳編」の作成協力者などもされています。全国の小学校や中学校の研究発表や研修会等でアドバイザーを務めていらっしゃる方です。
自分が納得したポイントは二つです。ひとつは、道徳の授業は「生徒理解」に使うという発想の転換が大事であるという点。二つ目は、考え・議論する道徳にするには、人間の生き方に迫るような発問し、共に考え悩む姿勢を見せることが大事であるという点です。
道徳の授業を「生徒理解」に使うとはどういうことかというと、あらゆる教育活動の中で、教え伝えておいて、「考えられているね」って認めてあげたり、周りから認めてもらえたり、「こんな考え方ができるんだ」と個々の生徒のよさを教師が発見する場が道徳の授業である。ということです。例えば、教科の授業で脱線して、「君らはまだ分からんかもしれんけど、友達って大事なもんや~」というような話をするなど、普段は伝えないといけないし、言わないといけないけれど、道徳の授業でかしこまって、友情とは何かみたいな話をするのではないという考え方です。それよりも、生徒から考えを引き出し、深めてあげる場にするということです。
二つ目の、発問については、教材をさらっと読んで、はは~ん、これがねらいかと思うのは中学生も考えるので、本来のものではなく、ねらいはその奥にあるということを念頭に置いて教材研究すべきであるという考えです。そしてそのねらいは人間としての生き方を深く考えさせるものであることも重要となってきます。さらっと読んで直感で感じたねらいが本来と違う理由は、中学生は次の3つのことを知っているからです。①何が大事か知っている。②そんなこと簡単にできないと知っている。③先生、あんたもできてないやんけということを知っている。だから、同じ人間として、悩み考える姿を見せたらいいという話です。だからと言って、共に考えてこれ難しいわ~分からんわ~で終わったらいかんし、悩むことが大事なんだで終わってもダメで、「こうだ!」っていうのも違うと。悩んでいる理由が広がることが重要で、「こういうことで悩んでいる人がいるんや」「自分はこういうことで悩んでいるんだ」って自覚し視野を広げることが大事というお話でした。
道徳はオープンエンドであるとかつて先輩から教わったことがありますが、なんか違うけど、でも、教えるのも違うなと常々思ってきました。そんな自分には一筋の光が見えたお話でした。
来年度から、教科書の読み物を使っての道徳が始まります。子どもたちが頭をフル回転して悩み、考え、議論する道徳の授業を創るには、深める・掘り下げられる発問を用意する教材研究がまずベースにあり、授業中に、生徒の発言をとらえ、きりかえす力量が必要になってくるように感じます。これは教師の役割だと私は思います。そう思っていながらも、道徳の授業を創るのが苦手な私は、島先生に質問をしました。「道徳の主発問を考えるのが苦手です。どうやったら、深められる発問を考えられるようになりますか。」と。島先生回答は、「発達段階を踏まえ、何度も主発問を考える練習をしたらいい」と。そうすれば見えてくると。見えてくるのかなと一人で不安なので、一緒に考える練習をする勉強会しませんか。不定期で負担の無い程度で。賛同していただける先生は、野々山道まで一言おかけ下さい。2月・3月ぐらいで第1回をやりたいと思っています。
働き方改革が叫ばれていますが、「自分自身の力量向上」の研修をしなくてもよい?!
のではありません。自分自身の成長の歩みを止めることは、子どもたちに申し訳ない!
ことでもあります。
他人から与えられる「研修」よりも、自らが進んで学ぶ「研修」が我々教員の生命線です。
アクティブに教員人生を送ろうではありませんか!!
受け身では、いつかは「子どもたちから取り残される?」時代が来るのかもしれません。
よろしくお願いいたします。