魂の編集長 水谷謹人
伊藤伝右衛門(でんえもん)は明治から大正、昭和の時代を駆け抜けた炭鉱王である。
当時、石炭は産業にも戦争にも欠かせない唯一のエネルギー資源だった。時代は、小さな炭鉱業を営んでいた伝右衛門にとって追い風となり、明治27年に勃発した日清戦争で彼は巨万の富を得た。
当時は、名声も権力もカネで買える時代だった。無学で文字も読めない伝右衛門だったが、地元銀行の取締役に就き、晩年は頭取にもなった。衆議院議員も二期務め、政治家として手腕をふるった。
そんな伝右衛門にとって唯一の不幸は、50歳の時に妻・ハルを病気で亡くしたこと…ではなく、後妻として大正天皇の従妹で、柳原(やなぎわら)伯爵の令嬢・燁子(あきこ・25)を迎えたことだった。
この女性がすごかった。もし燁子が妻として大切にされ、幸せな結婚生活を送っていたら、誰も彼女のことを後世に語り継いではいないだろう。炭鉱で働くたくさんの荒くれ者を従えていた大富豪は、たった一人の妻を幸せにできなかったのだ。
先般訪れた福岡県飯塚市の「旧伊藤伝右衛門邸」は、広大な敷地の中に建てられた豪華絢爛(ごうかけんらん)な屋敷だった。
燁子が嫁いできた時、そこには跡取りにするために養子にした伝右衛門の甥2人と、彼の妾(めかけ)の子で小学6年生の静子、伝右衛門の父親の妾の子で初枝という若い女性、そしてもう1人、屋敷の一切を仕切る女中頭のサキがいた。
伝右衛門は再婚する際、それまでの派手な女性遍歴を清算したが、サキだけは手放さず屋敷に置いていた。燁子はこのサキと相当激しいバトルを繰り広げたようである。
もちろん現代の倫理・道徳観で歴史を裁くのは野暮だ。「妾」は今の「愛人」とは別物である。正妻公認で、法的にも正妻と同じ二等親の立場が保証されていた。貧しい家や身分の低い家に生まれた女性にとって「妾になること」は大出世の道でもあったのだ。
それでも男中心の社会であったこと、カネと地位のある男たちは「やりたい放題」だったことは否めない。
燁子も柳原伯爵の妾の子で、一度由緒ある伯爵家に嫁いだが、その時は夫の暴力が原因で実家に逃げ帰っている。そんな燁子を実家は「出戻り」「柳原家の恥さらし」と蔑(さげす)んだ。
二度目もまた歪んだ結婚生活だった。燁子はかつて嗜(たしな)んでいた短歌に没頭し、「白蓮(びゃくれん)」という雅号(がごう)で世に作品を発表していった。
ある作品が雑誌『解放』に掲載されたことが縁で、白蓮は編集に携わっていた東京帝大の学生・宮崎龍介と出逢った。2人は当初、事務的な手紙を交換していたが、やがてそれは恋文になっていった。
旧伝右衛門邸の敷地内に、白蓮の足跡を展示した「白蓮館」がある。
「恋しゅうて/なつかしゅうて/悲しゅうて/どうしたらよいやら/りうさま」 約10年間鬱積(うっせき)していた情念を白蓮は龍介にぶつけた。2人が交わした手紙は700通を超えたという。
龍介に「この家から私を連れ出して」と迫る手紙がこれだ。
「こんな恐ろしい女/もういやですか/いやならいやと早く仰(おっしゃ)い/さあ何(ど)うですか/お返事は」 大正10年10月20日、2人は駆け落ちした。その2日後の朝刊に、白蓮が新聞社に送った伝右衛門への絶縁状が掲載され、夫婦の恥部が世間に晒(さら)された。俗にいう「白蓮事件」である。
富と名声を手に入れるより、1人の女を幸せにすることが難しい時代だったのだろうか。
この事件から約100年。この間最も変化したものは女性の社会的な立ち位置だろう。女性には凄まじいエネルギーがある。そのことに世間が気が付いた最初のきっかけは「白蓮事件」かもしれない。
今や女性の活力は、家庭はもちろん、社会にも欠かせない貴重な資源だ。磨くとダイヤのような輝きを放つ。
まだまだ、「男女平等」「男女同権」「男女共同参画社会」など・・・・・・・・・・と言われますが?
日本の人口が減少し、「労働者人口も減少し」リタイヤした人たちを少ないその人たちで
「支える?」世の中になっているにもかかわらず・・・・・・・・・・。
女性にも男性と同じように頑張っていただかないと・・・・・!!
そして、最近問題になっている「外国人労働者」も同じように・・・・・・・!!
男子?女子?
日本人?外国人?などと言わず、「同じ人間として!!」
学校教育が果たす役割は大きいと思います。
大人になってから変えるより、大人になる前に「そのような当たり前の感覚を!!」
育てたいものです!!
ともに、頑張りましょう!!