みやざき中央新聞「中部特派員 山本孝弘より」
「松本サリン事件」で警察、マスコミから犯人扱いされた河野義行(こうの・よしゆき)さん(69)と先日お話しする機会があった。
今は生まれ故郷の愛知県豊橋市で暮らしているという。私と同じ街で暮らしていることに驚いた。
事件は平成6年、長野県松本市で起きた。河野さん宅周辺で夜に猛毒のサリンが撒かれた。河野さん夫妻をはじめ数百人が病院に運ばれ、7人が死亡した。救急車の中で死を覚悟した河野さんは高校1年の長男に言った。「後は頼んだぞ」
写真が趣味だった河野さんの家には一般家庭にはない薬品があった。自分で現像する時に使うもので、使い方次第では猛毒になるものだった。
警察は河野さんを被疑者として扱い、マスコミは実名で報道。河野家には嫌がらせの電話や手紙が殺到した。
逮捕が近いと覚悟した河野さんは中高生だった3人の子どもに貯金通帳と家と土地の権利証を渡して言った。
「お父さんが逮捕されたらこれは今後のためにみんなで考えて使いなさい。どうにも足りなくなったら家も土地も売ればいい。なんとかなる」
共犯を疑われた長男は警察の事情聴取に毅然とした態度で応じた。
「あの時、息子が自暴自棄になっておかしな証言をしていたら私は逮捕されていたでしょう。なかなかいい息子です」、河野さんはそう言って笑った。
当時の子どもたちの負担に思いを馳せると心が痛む。私にも現在小学生の子どもが二人いるが、数年後にそこまで成長しているだろうか。家の財産を任され戸惑わないだろうか。河野さんにそう話すと、こんな答えが返ってきた。
「子どもはね、年齢ではないんです。『後は頼む』と私に言われた時の息子は覚悟を決めた顔でした。あなたのお子さんも覚悟した瞬間に大人になりますよ」
事件から12年後、一人の男が河野さん宅に現れた。サリン噴霧(ふんむ)車を作ったことで懲役10年の実刑判決を受けた元オウム真理教信者のFだった。溶接技術があったFは命じられるまま図面通りに作業を進めた。まさか殺人に使われるとは思ってもみなかったという。重い量刑を受けたFに河野さんは言った。
「あんたもついてないね」
河野さんはFを、加害者側の人間ではなく自分と同じ被害者側の人間だと思ったのだ。
河野さんは彼の謝罪を受け入れ、その後は何度も河野さん宅で食卓を囲んだり、一緒に釣りに行ったりしたそうだ。
事件から14年後、重体だった最愛の妻が亡くなった。その間、意識が戻ることはなかったが、河野さんは毎日「生きていてくれてありがとう」と声を掛け続けていたという。
「葬式はね、明るく見送ってやりたかったんですよ。だから結婚式同様二人でやろうと思ったんです。さすがに子どもたちに大反対されましたが」
河野さんには警察に対してもオウムに対しても怒りがない。河野さんにとってそれが「自然体」なのだろう。
「怒ってどうするんですか? こっちが疲れるでしょ。それに人は間違えるものです。許すほうが楽なんです。私は損得勘定で許すほうを選んでいるだけです」
「お会いして謝罪したい」とオウムの死刑囚数人から連絡が来た時も、河野さんは律義に東京拘置所まで会いに行った。
「面会で一人につき3万円を差し入れました。でもね、新実智光君は少し減額しました。『ニイミ』の名前に因んで2万1千3百円にしたんです。『名前が違えばもっと貰えたのにね』と私が言うと彼はきょとんとしていました」
これが彼の自然体だ。河野さんは最後にこう言った。
「『ああ、楽しかった』、そう言って私は死ぬつもりです」
豊橋市をゆったり流れる一級河川の豊川(とよがわ)。河野さんは今日もそこでスッポンやウナギを釣っている。まっすぐに伸びた竿の先をじっと見つめて…。
「自然体」!!
言葉で言うのは簡単ですが、「私にできるだろうか?」
「許す」!!
言葉で言うのは簡単ですが、「私にできるだろうか?」
「覚悟」!!
言葉で言うのは簡単ですが、「私にできるだろうか?」
ましてや、子ども時代に・・・・・・・。
ちょっとしたことで「怒ったり」「クレームをつけたり」「ケンカをしたり」・・・・・。
世知辛い世の中になってきましたが、「自然体」でいられる「ゆとり」
「許す」ことのできる「ゆとり」を持ちたいものです。
「許しあえば」技図気逗子ないと思うのですが・・・・??
言葉では簡単ですが、これまた、難しいことの一つですね!!
親愛なる日中健児のみなさん!!
将来を「どんな社会にしたい!?」ですか?
将来の社会づくりは、「もう始まっています!」よ!!
ぎすぎすした社会にしないためにも、一人一人が・・・!!
よろしく!!日中健児!!