私は宮崎大学医学部と附属病院の倫理委員会委員長をしています。
病院の中に「臨床倫理部」というところがあり、そこの部長職も兼務しています。
病院という命を扱う職場において、「正しい倫理観を持つ」なんてことは、
ある意味で当たり前のことですよね。
でもそんな「当たり前のこと」がなぜ最近になってこんなに叫ばれているのか。
その理由をひとつ挙げるなら「医療技術が進歩したから」です。
話題になっているものを取り上げるとすれば「人工呼吸器」です。
たとえば、病気の状態から意識が戻らない人がいます。
人工呼吸器やさまざまなチューブにつながれて命を維持している状態です。
もちろん命が助かった瞬間はご家族の皆さんも「まだ意識は戻らないけど、とにかくよかった」
と喜びます。
でもその状態が1週間、2週間、さらに1か月近く続くと、「先生、じいちゃんは
本当に大丈夫なんですか?」と不安になってきます。
「そうですね、低酸素状態が脳にダメージを与えてはいますが、人工呼吸器をつけて
栄養管理もしっかりしていますから、おじいさまは生きていますよ」
「でも見てください。元気だったころの面影が全然ない。まるで機械に生かされてる
みたいですよ」
その後、親族が集まった時に「じいちゃんは昔から粋な姿というのを大事にする人だった。
そんな人がこの様子を人様にさらすのは嫌なんじゃないか」という話になります。
そして、「先生、じいちゃんはもう90です。今亡くなっても大往生です。だからこの呼吸器
というのが逝くのを邪魔してるんじゃないかと思って・・・どうか外してやってくれませんか」
と涙を浮かべて頼んでこられます。
でもここで、「そうですか。分かりました」と外せますか? という問題なんです。
こういったケースで人工呼吸器を外した場合、2007年までは頻繁に起こっていた問題です
が、外した医師が殺人容疑で書類送検されてしまうことがありました。
倫理というものがなんだかよく分からなくなってくるんです。
わが母、わが父と思い、そして患者さんのことを心から考えて善意で行ったことが殺人に
なってしまう。
これが今医療の現場で起こっている「倫理問題」の姿なんです。
患者さんには「自己決定の権利」があります。
医療の倫理の最も大事な権利です。
自分ががんになったとき、放射線治療や抗がん剤を受けるか。
それとも最期まで自分らしく穏やかに過ごしたいから、命は少し短くなるけれど在宅ホスピス
を選ぶか。
それは自分で決める権利があります。
ところが、認知症などで自分で決める力を失ってしまったり、意識がなくて
「どうしてほしい?」と聞いても返ってこない場合があります。
救急病院へ搬送されたりすると一刻を争う事態なので、本人が希望していなかったとしても
さまざまな医療行為をします。
その後、ご家族に「お願いですからもう楽にしてあげてください」と言われても、
さっきお話ししたようなことが起こるのでなかなか途中でやめられないんです。
「何が善くて何が悪いか」という倫理的判断をする時に、「思いやりがある」だけではだめ!
というのが難しいところなんです。
ですから今現場で苦しんでいる患者さんやご家族はもちろん、医療従事者も悩んで
苦しんでいます。
そんなときは相談したくなりますよね。
そこで必要なのが「臨床倫理の専門家」です。
医学や社会福祉の知識だけでなく、法律にも精通していて哲学や倫理学にも詳しい学際的
な人が要るわけです。
僕の仕事はそういった知識を身につけ、倫理的に悩んでいる現場の医師や看護師を
サポートすることなんです。
●リビング・ウィル(尊厳死の宣言書)
この仕事を始めて、いろんな経験をしました。
臨床倫理部をつくって半年ほどたった時のことです。
年齢は80歳くらい、大動脈弁狭窄症という病気で緊急搬送されてきた患者さんがいました。
その時、僕の院内PHSが鳴ったんです。
「先生、ご家族の方がリビング・ウィル(尊厳死の宣言書)を持ってこられたんです。
大事な書類だと思ったので受け取りはしたんですけど、これに従って今付けている
人工呼吸器を外すと患者さんが亡くなってしまうので困っています。
来てくれませんか」と。
現場に着くと、30代後半の救命医からその書面を見せられました。
「現在行われている延命治療や輸血についての停止をお願いします。家族一同自然死を
希望します」と書かれていて、日付と奥さん、子どもたちの名前と判が捺してありました。
さて、ここでちょっと皆さんも考えてみてください。
実はこの事例は医学部の教材としても使っています。
まずは入りたての1年生に訊きます。「これまで医学部に入るためにいろんなことを勉強して
きたと思う。尊厳死という言葉も一応知っているでしょう。
このケースで、ドクターはこんな書類を受け取ったわけだけど、これがリビング・ウィルだ
と思う人は手を挙げて」と。
すると、だいたい毎年110人くらいいる新入生の8、9割がキラキラした目で手を挙げます。
一方6年生。医師国家資格試験に合格すれば来年から現場に出られる最終学年です。
彼らにも同じことを訊くと逆転します。
9割は手を挙げません。
最終学年ともなれば一目瞭然なんですね。
その通り、この場合の宣言書はリビング・ウィルじゃないんです。
さすが6年生。残り1割がちょっと心配ですが(笑)。
リビング・ウィルは、基本的にご本人の意思が直筆で書かれたものをいうんです。
さっきの書類は明らかに家族が書いたものだったんです。
「えっ?」と思う人もいるでしょう。
「本人の手足がまひしていたりして、家族が代筆するということはあると思うんですけど」と。
でもそれは原則としてリビング・ウィルとは呼ばないんです。
「呼ぶ呼ばないじゃなくて、それをどう尊重するかの問題でしょう?」確かにその通りです。
だからこそ「本人が書いているかどうか」というのがとても大事になってくるんです。
医療現場も、苦しんでいますね!?
このような話を「道徳」の教材にすることがあります。
当然、医者を志す学生でも「意見が割れる」話です。
中学生は、当然、賛成の立場と反対の立場nい分かれます。
話し合いを通して「賛成の立場」から「反対の立場」に変わる子や
「反対の立場」から「賛成の立場」に変わる子もいます。
この「価値観の揺らぎ」を大切にしたいと考えています。
医学的には?法律的には?・・・・・・・・
という観点もあるとは思いますが、価値観はさまざまです。
簡単に決められるものではありません。
将来、少しでも「よりよい選択」ができるように・・・・・・・・。
「より良い選択?????」
難しいですね。
少しでも大人になるまでに、多くのことを「考えて、考えて・・・・・!!」
がんばれ!!日中健児!!