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日中健児のつぶやき(R1) 03/01~03/31


2020/03/16

3月16日(月)日本講演新聞

Tweet ThisSend to Facebook | by 日進中学校管理者
「善性寺仏教婦人会」が宮崎県都城市で開催した講演会より
私は2011年3月11日の東日本大震災当時、宮城県気仙沼市の鹿折(ししおり)という地域で、代々続く「すがとよ酒店」を主人と2人の息子と一緒に切り盛りしていました。
  その日は暖かくて、「もうすぐ春が来るね」と皆で談笑していました。
  突然大きな揺れがきたのは午後2時46分。息子2人はお酒の置いてある棚を必死で押さえました。しかし、お酒はどんどん床に落ちて割れるばかりです。
  主人は「津波が来るかもしれない」と言い、近所で一人暮らしをするおばちゃんの様子を見に行きました。息子たちは車を遠くに避難させに行きました。
  隣家の千葉さんは一人暮らしで、津波警報が出るといつも我が家に避難してきます。千葉さんの家は地震でかなり壊れていました。
  義父、義母と千葉さんと私の4人で2階の茶の間で周囲の様子を伺っていました。
  不安な気持ちで外に目をやると、戻ってきた主人が車から降りて、お店に入ってくるのが見えました。その直後、黒い波がスーッと地面を舐めるようにして近づいてきたのです。
  私は急いで1階に降りる階段の途中から身を乗り出し、「お父さん!!」と叫びました。水かさはどんどん増して、主人はその水をかき分けるようにして私の方に近づいてきました。
  「お父さん早く!!」と、手を伸ばし、主人と手を取り合った瞬間、背後からのすさまじい波にのまれ、主人は目の前から消えたのです。
  あまりにも一瞬の出来事でした。私は混乱しながら階段を駆け上がり「じいちゃん、ばあちゃん屋根の上だよ」と叫んで、千葉さんと屋根のさらに上の物干し台に逃げたのです。
  どれ位の時間が経ったことか。私はハッと姿の見えない義父母のことが頭をよぎり、恐る恐る2階の茶の間に探しに降りました。
  義父は窓際で冷たくなっていました。義母もその時亡くなったのですが、茶の間は泥にまみれてぐちゃぐちゃになっており、その時は見つけることができませんでした。今思えば気が狂いそうな出来事なのに、その時私は涙も出ませんでした。
  その夜、私は千葉さんと階段のすみに重ねてあった毛布にくるまり、屋根の上で一夜を明かしました。朝になり周囲を見渡すと、住み慣れた商店街は跡形もなく消えてしまっていました。
  私は途方に暮れながらも屋根の上にいました。しばらくして「おふくろー、おふくろー」と叫ぶ声が聞こえたので、ハッとして声のする丘の方を見ると、息子たちの姿が見えたのです。「息子たちが生きている!」そう思うと急に涙があふれ「生きていける」と思ったのです。
  その日の夕方に次男に救出され、丘の上のお得意様の家に泊めてもらいました。そして、翌日の早朝、長男のお嫁さんの実家に避難したのです。
  その家にはすでに長男、お嫁さん、孫たちが避難していて、「ばあばが生きていた。ばあばが生きていた」と喜び、泣いてくれました。
  私はもう絶対に離れるものかと、皆と泣きながら抱き合いました。

  夫は行方不明のまま、遺体安置所を探し歩いても見つからず、むなしく日々が過ぎるばかりでした。
  これから先のことを考え始めた時、お金のことが気になり、ある関係筋に電話をしました。するとその方は「今はお金のこと考えなくていいから、生きることだけ考えてください。もう鹿折はダメかもしれない。商いもできないでしょう。生きる道を変えた方がいいでしょう」と言うのです。
  しかし、酒屋以外の「生きる道」とはいったい何なのでしょう。そんなことは一度も考えたことはありません。私は、嫁いできてからずっと、家業の酒屋を守り、働いてきたのです。
  どんなに考えてもいまさら他の生き方など思い浮かびませんでした。
  そんなある日、お得意様から「皆で飲む酒を売ってほしい」と注文をいただいたのです。
  長男は、親父が見つからないうちは商売はできないだろうと反対しましたが、私は「代々続いたお店を途絶えさせるわけにはいかない。お父さんもお店の再開を望んでるはず」とお店の再開を決意したのです。
  そこで昔からのお得意様の建築会社に13坪の土地を貸してもらい、知り合いや息子の友人に手伝ってもらって土地を整備しました。そこに3坪ほどのプレハブとテントを一張りで「すがとよ酒店」を再建したのです。震災から1か月半しか経っておらず、本当に早い立ち上がりでした。
  バラックのような仮設店舗でしたが、当時開いているお店もなく、お酒だけでなくお菓子や日用品を並べたところ、多くの人が来店してくださいました。
  ある親しいお客さんの一人が「奥さん、またあのラベル、何か書いたら!!」と声をかけてくれました。震災前、私は地酒に筆字のオリジナルラベルを貼り、販売していたのです。
  私はどうしようもなく悔しい思い、負けたくない思いを込めて「負げねぇぞ気仙沼」と書き、地酒に貼って店頭に並べました。この「負げねぇぞ気仙沼」の地酒は、全国テレビで紹介されたこともあり、とても大きな反響をいただきました。

  お店を再開したばかりの時、私は「こんな悲惨な状況で酒屋を再開しても意味がないのでは」という後ろ向きな気持ちも抱えていました。でも、私たち家族の「生きる道」はこれしかなかったのです。
  私たちは酒屋を再開することで、少しずつ「生きていこう」という希望を持てるようになっていきました。

3月11日になると、震災被害にあわなかった「私でさえ」いろいろな思いが・・。
その日は、日進東小学校の子どもたちが下校するために運動場で整列を始めた
時間でした。すぐに、体育館に避難させながら「テレビ中継」を見ながら
被害の大きさに「愕然とした」思い出があります。
それ以後、「災害ボランティア」へも足を運び、少しでも!!
愛知県は「南海トラフ地震」が来るといわれながら・・・・・。
この油断?がないことを願っています。
おたがい様!
おかげ様!
そして、明日は我が身!
その気持ちを大切にしたい!と思っています。
少し遅くなりましたが・・・。
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