宮崎市が主催した講演会より
樹木希林さんが亡くなってから、新聞やテレビを通して伝えられる彼女の生き方に多くの人々が共感しました。
なぜ希林さんの生き方はあんなにたくさんの人たちに共感を生んだのか。私たちは彼女からどのようなことを学ぶことができるのか。僕はそこに、いくつかのポイントがあると思いました。
まず彼女は、起きてしまったことをぐずぐず言うことがなく、現状をいつも肯定する人でした。
彼女の体ががんになっていることが分かったのは、2004年のことでした。そのことについて聞くと、「乳がんになってよかった」と言うのですね。
彼女はその年の12月にタイで映画の仕事が入っていました。それを終える時期と、お孫さんの学校が休みになる時期とがちょうど重なることが分かると、彼女は「しめしめ」と思いました。孫を呼んで、タイのリゾート地で一緒に過ごそうと考えたのです。
ところが、乳がんの診断がその前の11月の末に下されたのです。そして翌年1月には手術をすることになりました。
ホテルも仕事も、孫と一緒に遊ぶ予定も全てキャンセルになりました。
そして12月、そのリゾート地は大災害に見舞われました。津波で島の半分が壊滅するほどの大きな被害でした。
希林さんはそのニュースを知って、「自分自身はどうなってもかまわない。だけど孫を誘って死なせてしまっていたら、私はショックでなにもできなくなっていたと思う」と言っていました。それで彼女は「乳がんになってよかった」と僕に話してくれたのでした。
つまり、彼女は「がんになったことにも何か意味はあったのだ」と考えたのです。そうやって現実を肯定的に受け入れ、パワーを作っていく。そんな生き方をされる方でした。
彼女は乳がんの手術をするにあたり、「乳房を全摘出するか温存するか」にはこだわりませんでした。医師に言ったのは「技術的なことは任せる」ということだけでした。
一方で、絶対に人任せにはしないこともありました。それは「自分の生き方」です。
僕たちは、ちょっと嫌なことがあると、それで頭がいっぱいになったり、眠れなくなったりします。大病を患うと、「もうだめだ」なんて思ってしまうものです。
ところが希林さんは、がんが全身に転移し、命の時間があとわずかしかないと分かっていても、普段通りに自分の仕事を続けました。亡くなってからも彼女の出演した作品は上映されていましたよね。亡くなるぎりぎりまで良い仕事をし続けたからです。
彼女は、最初にがんが見つかって昨年亡くなるまでの14年間、自分らしく生き抜きました。本当に見事でした。
希林さんは、亡くなる前日に退院して家に帰りました。「最期は家」と言っていたことを娘夫婦が覚えていて、「お母さんの人生だから」と叶えてあげたのです。
親愛なる日中健児のみなさん
まだまだ、中学生?だと思っていませんか?
中学生だろうが、高校生だろうが、小学生だろうが・・・・・・。
みなさんの人生は始まっています。
「どんな生き方をしていますか?」
「どんな生き方をしたいと考えていますか?」
佳き人生のために、考えてみてはどうでしょうか?