みやざき中央新聞 魂の編集長 水谷謹人より
全国八か所で永業塾を主宰している株式会社アイスブレイク代表の中村信仁さんから、先日こんな話を聞いた。
つい最近、とある駅から新幹線の指定席に乗り込むと、自分の席の隣にホストクラブのホストを思わせるような派手な身なりの若者が座っていた。
何となくその若者が気になり、しばらくして中村さんは「ステキなファッションですね。どんな仕事をされているんですか?」と声を掛けた。
若者は褒められて上機嫌になり、最近始めた新種のビジネスのことを話し始めた。そして通路を挟んで座っていた二人の先輩を、「あちらは月収500万で、こちらは月収300万なんです。すごい人たちなんです」と紹介した。
1時間ほど彼の話に付き合った中村さんは首を傾げた。どうも彼の話は終始一貫、「収入が高い人=すごい人」という価値観で凝り固まっているように思えたのだ。
もちろんビジネスで成功することは素晴らしい。しかし、ビジネスでの成功を夢見る彼のギラギラした目は、かつて高度経済成長の時代、がむしゃらに働いてきた日本人の目の輝きとは全く違うと中村さんは感じたのである。
国全体が貧しかった時代は、「稼ぐこと」に価値があった。お金が増え、欲しいものが手に入ることに幸せを感じることができた。そのことが社会の繁栄にもつながった。
しかし、今の日本は違う。月に何百万も稼いでいることを自慢し、高級車を乗り回している人に、もう子どもたちは憧れなくなった。それは現代が「心の時代」だからだろう。
確かにお金は大事だし必要だが、今人々がかっこいいと思うのは、心が揺さぶられるような粋な振る舞いや考え方、生き方ではないかと思う。
この「粋」という気質は江戸時代に生まれたものだ。江戸っ子にとって「粋だね」という言葉は最高のほめ言葉だった。金持ちにとっても長屋の住民らにとっても「粋」は彼らの美学でもあった。
そのひとつに「金離れのよさ」がある。「金離れがよい」とは、お金に執着しないこと。お金を出す時は喜んで出し、一度出ていったお金にとやかく言わない。
「金は天下の回り物」という言葉は、金離れのいい人たちによる循環型の経済社会を象徴している。だから時代劇では金を貯め込んでいるケチな商人は悪人として登場するわけだ。
『三方一両損』という落語は、金離れのいい江戸っ子の話である。
ある日、神田の左官職人・金太郎が町で三両もの大金が入った財布を拾う。現在のお金に換算すると約20万円ほど。中に「書付」があった。今でいう請求書のようなもので、それで落とし主が分かり、金太郎はわざわざ届けに行く。
ところが、落とし主の吉五郎は頑として受け取らない。「一旦懐から出たものは俺のものじゃない」という了見である。
吉五郎は財布を落としたことに気付いた時、「こんなめでたいことはない。さっぱりした。財布を探しに、来た道を戻るのは江戸っ子じゃねぇ」と、落としたことを祝って酒を飲んだという。
突き返された金太郎も「人様のお金を拾い、それをもらい受けて喜ぶのは江戸っ子じゃねぇ」と譲らず、挙句の果てにけんかになり、お互いを奉行所に訴える。
裁くのは大岡越前である。双方の主張を聴いた大岡越前は、三両を奉行所で引き取ることにした。そして自分の懐から一両を加えて四両にし、「二人の心意気への褒美だ」と言って、二両ずつ与える。
吉五郎は本来三両が戻ってきたのに二両になり、金太郎も三両をもらえたはずなのに二両、大岡越前は自分の一両をあげたことで、三者とも一両ずつ損をして、円満に解決した。これが「粋だね」である。
お金は粋な使い方をした時にその価値が発揮されるものだ。そして、そんな使い方をする人が本当にかっこいい人なのではないかと思う。
新内なる日中健児のみなさん!
「粋な・・・・・」
「かっこいい・・・・・・」
どんな人になりたいですが?
どんな心を持ちたいですか?
どんな人生を歩みたいですか?
ともに、頑張りましょう!!