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日誌


2018/09/11

9月11日(火)みやざき中央新聞

Tweet ThisSend to Facebook | by 日進中学校管理者
私は「かごしま探検の会」というNPO法人での活動を通じて、
鹿児島の町を歩きながら見つけた、「これいいな」と思ったものや場所を、
いろいろな方に紹介しています。
現在は、大河ドラマ『西郷どん』の製作に「史料取材協力」という形で携わっています。
たとえば、食事のシーンの食べ物や屋敷の小道具などは、何がふさわしいのか
ということを提案する仕事です。
また、原作本の方言指導にも関わらせていただき、
番組の最後に流れる名所旧跡を紹介するコーナーの、
場所の選定や台本づくりのお手伝いもしています。
他には、ドラマに出演される役者さんが鹿児島まで勉強に来られた時に、
役作りに必要な情報を提供しました。

薩摩藩第11代藩主・島津斉彬(しまづ・なりあきら)を演じられた渡辺謙さんも
撮影前に鹿児島に来られました。
斉彬は江戸生まれの江戸育ちで、お殿様として実際に薩摩に来たのは5回だけでした。
渡辺謙さんは、斉彬が江戸から薩摩までやって来た時の距離感を味わいたいということで、
長い時間をかけて東京から鹿児島まで、ご自身の車を運転して来られたんです。
その、自分が演じる場面をしっかり理解したいというプロ意識の高さに感動しました。
  
西郷隆盛の生涯に大きな影響を与え、「幕末の名君」とも呼ばれた斉彬でしたが、
一体どこがすごかったのでしょうか。
それは歴代のお殿様の中でも、圧倒的に好奇心が旺盛なところです。
そして斉彬は、枠にとらわれない柔軟な考えを持ち、常に先を見ていました。
斉彬の曾祖父に島津重豪(しげひで)というお殿様がいました。
重豪は長崎を通じて入手できる蘭学を好んで学んでいたことから、
「蘭癖(らんぺき)大名」と呼ばれていました。
また、89歳まで長生きをしてひ孫の斉彬をかわいがり、
斉彬の人格や価値観に大きな影響を与えたといわれています。

その一方で、斉彬の父親である斉興(なりおき)は、息子のことをあまり
評価していませんでした。
重豪の後に藩主となった斉興の使命は、重豪の時代に大きく膨らんだ借金を返すことでした。
斉興は家老・調所広郷と共に借金を減らす努力を重ね、貯金までつくりました。
そのため斉興には、重豪の影響を受けている斉彬が藩主になったら、
「自分が苦労してつくった貯金を取り崩すのではないか」という危機感があったのです。
なかなか藩主の座を譲らない斉興の態度に、斉彬の異母弟・久光が藩主になるのではと
危惧した斉彬派の家臣たちが行動を起こし、これを斉興が処罰するお家騒動も起こりました。
しかし斉彬は、43歳でようやく藩主になった後、
そんな父との確執を取り除く努力をしています。
重ねてのお家騒動を避けるために、父親の代からの家来を使い続けたのです。
私は、これは良くもあり悪くもあったと思います。
西郷のような下級武士の中には斉彬を信奉する者がたくさんいましたが、
藩の決定事項を握っている上層部には、斉彬の考え方について行けない者も
多かったからです。

当時、中国で起きていたアヘン戦争でイギリス、フランスなどの西欧諸国が
アジア各地で植民地化を進めていました。
「日本も植民地化されるのではないか」と懸念した斉彬は、日本をひとつにまとめ、
産業を興して豊かな国に生まれ変わらせ、国を守るための軍備を強化すべきだ
と考えました。
藩主就任後、この考えを実現させるために斉彬は近代的な工場群を作り、
それを「集成館」と名付けました。
中でも、大砲を鋳造するための「反射炉」は、当時日本は鎖国中だったことから、
西洋人に頼ることなくオランダの書物を自分たちで翻訳しながら、
薩摩の在来技術を生かして造ったものでした。
近代工業化は佐賀藩や幕府も進めていました。
しかし、斉彬の集成館事業では、大砲や軍艦を造る軍備だけではなく、
その技術を生かして薩摩焼や薩摩切子などの工芸品を作るといった、
民需産業のことも考えていたという点が異なります。
他のお殿様は外国からの圧力に対抗することを中心に考えていましたが、
斉彬は「対抗することも大事だが、工芸品を作り、貿易によって解決することも大事だ」
と考えていたのです。

ところがこの事業は、斉彬が亡くなった途端に縮小されます。
結局、上層部は斉彬が目指した集成館事業の思想的な部分を理解するまでには
至らなかったのです。
斉彬の目指したものが本当に薩摩藩の中で理解されたのは、
薩英戦争以降といえるでしょう。
薩英戦争で、イギリス艦隊は最新の大砲で鹿児島城下を砲撃しましたが、
薩摩藩は斉彬時代に築いた砲台や鋳造した大砲などの備えが効果を発揮し、
イギリス艦隊に大きな損害を与えました。
この出来事によって、戦争が終わった後に先代・斉彬の素晴らしさを皆が実感しました。
同時に力の及ばなさも痛感し、集成館事業は再開されます。

ちなみに斉彬時代とその後の時代の集成館事業は、
23の構成資産からなる「明治日本の産業革命遺産」の一部として、
2015年に世界文化遺産に登録されています。
斉彬は志半ばで亡くなりますが、その思想や志を受け継ぎ、
明治維新の立役者として時代の表舞台に現れたのが「西郷隆盛」だったのですね。

私も大河ドラマが好きで、毎週「西郷どん」を観ています。
いつの時代にも、その時代の人たちには「理解されないほどの先見性」を持って
リードしていくリーダーが出るものです。
今、日本に限らず、世の中は混迷の時代を迎えています。
今、この時間にも「私たちが知らないリーダー」がいるかもしれませんし、
出てくるかもしれません。
「枠にとらわれない柔軟な考えを持ち、常に先を見ている」
そんな大人を「育てることのできる教育界」でありたい!
と考えています。
そのためには・・・・・・・・・。
がんばれ!!人材育成!!
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