2018/05/28 | 5月28日(月)みやざき中央新聞 | | by 日進中学校管理者 |
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40代も最後に差し掛かっていた10年前、宮崎に俳優・声優養成学校
「サラ・エンターテイメント・アカデミー」(現・サラみやざき)が開校した。
東国原さんが県知事になって2年目の年で、宮崎はものすごい賑わいで沸き立っていた。
校長は東国原さんが昔漫才をやっていた頃の相方・大森うたえもんさんだった。
衝動的に「これは行くしかない」と思い、オーディションを受けた。
受かれば入学金が免除になる。
もちろん演技は全くのど素人、見事に落ちた。
なので入学金を払って生徒になった。
「演技」というのは本当に面白くて奥が深かった。
映画監督、声優、演出家といった講師陣から学ぶことはすべて新鮮だった。
レッスンの場はいつも将来を夢見る若い子たちの熱気に包まれていた。
本気で俳優を目指していたわけではない。
ただ映画やドラマの世界と関わってみたかった。
河岸に横たわった死体の役や主役がタクシーに乗り込んだ時の運転手役などに憧れた。
映画やドラマには、そういう周辺の人たちも重要な存在なのだ。
結局、ものにはならなかったが、養成学校は若い子ばかりだったので、テレビCMの
「中年男性役」のオファーが来ると、必ず声がかかった。
何が言いたいのかというと、あの時、年甲斐もなくやってはみたが、
やってよかったということだ。
1970年代、少女漫画『ベルサイユのばら』で一世を風靡した池田理代子さんは、
1995年4月、47歳の時、声楽家を目指すべく東京音楽大学に入学した。
それは幼い頃からの夢だった。
「一回限りの人生、この夢を叶えておかないと必ず死ぬ前に後悔すると思った」と、
『続・僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』(文春新書)の中で述べている。
1965年、池田さんは18歳で東京教育大学(現・筑波大学)に入学した。
学内では学生運動が吹き荒れていた。
池田さんものめり込んだ。
結果、親からの援助がなくなり、池田さんは生活のために漫画を描き始めた。
当時、貸本専門の店があり、売れない漫画家たちは、好き勝手に描いた漫画を貸本屋に
納めて原稿料をもらっていた。
メジャーになったのは大学3年生の時だった。
大手出版社から声がかかり、その5年後に『ベルサイユのばら』の連載が始まるや否や、
これが空前の大ヒット。
3年後には『オルフェウスの窓』が連載開始。
この2本で池田さんは漫画家として不動の地位を確立した。
そんな彼女に転機が訪れた。
40歳の時、重い更年期障害に悩まされ、前に進めなくなった。
立ち止まって考えたのは父親のことだった。太平洋戦争で激戦地の南方の島に送られ、
ほとんどの戦友が玉砕する中、父親は奇跡的に生き残った。
終戦の年から2年後に生まれた自分の命に思いを馳せた。
「父が生き残ってくれたおかげで今の自分がいる」
「10代、20代で戦死した人たちがたくさんいたことを考えると、齢をとることに
何の不満があるというのか」と思った。
若い頃には考えも及ばなかったことだった。
5年間迷いに迷って45歳で決意。
2年間、受験勉強をして音楽大学に入った。
「卒業する時は51歳。現役の声楽家が引退を考える年頃です。
その齢から何ができるんだろうと考えると怖かった」と池田さん。
そしてこう続ける。
「人間、どんな生き方をしても必ず後悔は付きもの。就職、結婚、進学、基本的に
後悔のない選択なんてない。
その中で一番怖い後悔は、『あの時、やろうと思えばできたのにどうしてやらなかったのか』
という後悔です」
本紙5月14日号、野中千尋の「取材ノート」にあった、96歳で女子高生になり、
100歳までに卒業して幼稚園の先生を目指している女性の話にも通じるものがある。
人間って本来、そういう力を持っているのではないか。
いくつになっても新しいことに向かう力を。
だってこれからの人生を考えると、今が一番若いのだから。
その中で一番怖い後悔は、
『あの時、やろうと思えばできたのにどうしてやらなかったのか』
という後悔です」
そうならないために、今、この時を精一杯!!
若い今は特に、「やって、やって、失敗して、失敗して、学んで身に付ければいい!!」
1回しか失敗したことのないひとは、2回目の失敗は怖いものです。
しかし、100回失敗した人は、101回目の失敗なんて怖くない!!
私は、そう思って生きてきました!!
みなさんは、どんな人生を送りますか?