2018/11/13 | 11月13日(火)ご冥福を・・・ | | by 日進中学校管理者 |
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新聞の記事によりますと、
中京商業高校の監督と部長として「黄金時代」を築いた「深谷弘次監督」が
なくなりました。日進市赤池町の方です。
私が高校球児だった頃、「名監督中の名監督」で、後光が差していました。
1978年「夏」の甲子園大会。準決勝。
PL学園に9回裏4点差を追いつかれ、延長12回に「押し出しサヨナラ負け」をしました。
その前年、東邦高校の「バンビ」が準優勝しています。
私の高校も、「県ベスト8,16ぐらい」の力があったので、よく練習試合をしていただきました。
バンビ率いる?実は、その時の東邦高校のキャプテンが「現監督、森田選手」でした。
その東邦高校に秋のリーグ戦で対戦し、惜しくも「0-1」で敗れましたが、
一気に私の学校の評判が上がりました。
そこで、春休みに深谷監督から声がかかったのです。
中京高校に練習試合に行った初めてのことでした。
中京高校の門をくぐる前から、野球部の声が八事駅の周辺まで聞こえていました。
その当時、中京高校野球部員は「100名?」近くいたと思います。
バックネット裏には「観客席」があり、いつでも、試合のできるグランドでした。
私たちが、グランドに顔を出すと「突然、グランドの声が・・・・・・・」静まりかえり、
100名近くの部員が「全力の声であいさつ」してくれた記憶があります。
その声を聞いて、私たちの学校は・・・・・・・・・。圧倒されてしまった思い出があります。
試合前のノックから、試合中の一挙手一投足まで「圧倒的な伝統校」としての動き。
そのとき、ノックをしていたおじさん?が、深谷監督でした。
試合は、確か?「0-10」くらいだったと思います。
まったく、歯が立ちませんでした。
初めての県大会で力が出せなかったバレーボール部のような感じだったと思います。
それから、教員になり、日進中学校野球部の顧問をしました。
そして、初めて出会ってから23年後、私が、日進市教育委員会に出向したとき、
そのときの教育委員に「深谷監督」が見えました。
「ご縁」とは、不思議ですね。
確か、教育委員会の歓送迎会の場だったと思います。
深谷教育委員に、その当時の話をし、「どんなことを考えて指導していたのか?」
と聞いたとき、「私は、絶対勝つ方法を知っていますから・・・・」とおっしゃられました。
その後、何度もお会いしましたが、その答えは「教えていただけませんでした。」
そんな野球部に携わった人間からすると、「中京高校」「深谷監督」は偉大で
あこがれの学校であり、監督さんでした。
日進中学校野球部顧問時代、野球部のユニホームを「中京高校型の詰め襟」にしたのも
懐かしい思い出です。
「中京野球」!!未だに、我々野球小僧のあこがれです。
ご冥福をお祈りいたします。