現在、京都の東本願寺の高倉幼稚園で園長をしている佐賀枝夏文氏の話です。
どうぞ「さざえさん」で覚えてください。
「さがえ」と読むのですが、子どもたちが読み間違って、「さざえさん」と呼んでくれたので、それからは「さざえさん」と名乗ることにしました。園児たちは「さざえさん、さざえさん」と私の丸い頭をさわりに来ます。中には叩きに来る子もいます(笑)。
私は4歳の時に父を結核で亡くしました。そして小学2年生の時に母が働きに出て、いなくなってしまいました。私は子どもの頃に死に別れと生き別れを体験したのです。
もうちょっと父にそばにいてほしかったし、母にもそばにいてほしかったのですが、いなくなってしまった。それは私にとって「喪失」でした。
「喪失」は私の人生のテーマですが、ある言葉と出合った時に、私は「いいなあ」と思いました。それは「よみがえる」という言葉です。
この言葉に出合うまで、私は「早く人生が終わったらいいな」とか「早く自分の人生を片付けていこう」と思っていました。
親という一番そばにいてほしかった人が、病気や事故、災害でいなくなってしまったけれど、そのことを起源として自分がよみがえってくれたらいい。「よみがえる」という言葉に出合った時、そう思ったさざえさんです。以上自己紹介でした。
飛騨高山に中村久子さんという人がいました。中村さんは2歳の時に左足の甲が凍傷になりました。そこから雑菌が入って、突発性脱疽(だっそ)という病気にかかりました。
医者に診てもらったら、「これは切断しましょう」と言われたのですが、2歳の女の子に切断というのはあまりにも不憫(ふびん)だったので、切断せずに両親は連れて帰りました。
それから両親は病気が治るように一生懸命祈りました。しかし、再び医者に診てもらった時には病気が他の手足にも広がっていました。
「もう四肢切断しないと命の保証はできません」と言われたので、両親は泣く泣くわが子の両手両足を切り落とすことにしたのです。
中村さんはその後、生業がなくて自ら見世物小屋に身を売ります。「だるま娘」という芸名で、自分の一番見せたくない姿を見せて生きていきました。
中村さんは「何ですぐに切り落としてくれなかったの」と両親を恨んだと思います。「あの時に切り落としていれば、まだどこかの手足は残っていたのに」と。
中村さんは後に浄土真宗の門徒になって、「私がここまで生きてこられたのは、たくさん応援してくれる人がいたからです。たくさんの教えを立派な先生方に説いてもらい、導かれて、ここまで来ることができました」と語っています。
そして、私は次の言葉にびっくりしました。「本当の私の先生は、失くなった手足でした」
中村さんは自分の手足がなかったことで、どんなにつらい思いをしたことでしょう。でも、それが転じて「私の先生は失くなった手足でした」と言えるようになった。
この言葉を聞いて、私は次のように置き換えてみました。
中村さんが私に語り掛けます。
「佐賀枝さん、あなたは早いうちに父親が亡くなって、母親に置いていかれて、捨て子みたいで大変やったね。でもそれがあなたの人生よ」
それまで私は「あれがあったら、これがあったら」とないものねだりで、「こうだったら幸せだったのに」と思っていました。
でも、そういう境遇も含めて「自分の人生」ということに気付きました。中村さんは一人ひとりにそう語り掛けている気がします。
誰しもいろんな失敗をするけれど、私は中村さんから「失敗も含めてあなたの人生ですよ」と言われたような気がして、すごくほっとしたのです。
●勇気をいただく
冷や汗をかいた記憶はありませんか? 「あのことは思い出したくない」というものです。私にとってそれは、両親のいなくなった記憶でした。
でも、それをあえて思い出して、「あのことがあって、私は今ここにいるんだ」と思った時に、勇気が湧いてきたのです。
「あのことがなかった人生は私の人生ではない」と思った時に、「なるほど、そういうことだったのか」と気付きました。
つまり、「あのことがなかったらよかったのに」という人生は「もともとない」ということです。皆さんもそう思うことにしてはどうですか?
生きていればいろんなことがあると思います。でも、その全てが自分の人生なのです。
これまで生きてきて「あのことをやり直したい」または「なかったことにしたい」ということがあるとしたら、「あのことがあって今の私がある」と思うといいですよ。
そうすると何か「勇気をいただく」というような気がします。
誰もが、「明日は、どうなっているのか分かりません?」
今、この時を精一杯生きて、失敗を含めて「丸ごとの人生」を生きたいものですね!
今、有るものに感謝!!
ありがとう!!日中健児!!