2018/12/03 | 12月3日(月)大人が子どもに伝えていないこと |  | by 日進中学校管理者 |
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大阪・梅田にある紀伊國屋書店のレジは長蛇の列だった。
ようやく自分の番が近づいてきた時、レジのところに置かれた高さ1メートルくらいの
看板が見えた。
朝日新聞の読者欄に大学生が投稿した記事を大きく拡大したもので、
タイトルは「読書はしないといけないの?」だった。
「1日の大学生の読書時間『0分』が5割に」という、
その10日ほど前の同紙記事を読んで投稿したものだった。
その大学生は、「高校生まで読書を全くしなかったが、それで困ったことはない」
「読書をする理由として、教養を付けるためというのはあり得るだろうが、だからといって
本を読まないのは良くないと言えるのか」
「読書は音楽やスポーツと同じ趣味なのだから、読む人もいれば読まない人もいていい
のではないか」と、若者の読書離れを憂う世論に疑問を投げかけていた。
最初のボタンを掛け違えると、その後の展開がおかしくなる。
そもそも本は、教養を身に付けるために読むのではない。
「教養とは、人生におけるワクワクすることや面白いこと、楽しいことを増やすための
ツールです。自分の人生を彩り、豊かにするものなんです」と、今年1月、本紙に登場した
立命館アジア太平洋大学の出口治明学長はこう語っていた。
そして、著書『人生を面白くする本物の教養』の中では、『シャネル』の創業者
ココ・シャネルのこんな言葉を紹介している。
「大学も出ていない歳をとった無知な私でも、道端に咲いている花の名前を一日一つくらい
覚えることができる。一つ知れば世界の謎が一つ解けたことになる。その分だけ人生は
楽しく、素晴らしいものになる」と・・・・。
つまり、花の名前を知るという知識そのものではなく、そのことで人生を彩り、
豊かにするのが教養というのである。
さらに出口さんは言う。
「教養は自分の頭で考える力になる。与えられた情報を鵜呑みにして生きる人生は
つまらない」と・・・・・・。
「鵜呑み」といえば、出口さんにはこんな経験がある。
随分前、ある団体が二種類のテレビCMを流していた。
一つは恰幅のいいおじさんがいろんな国の子どもたちと手を繋いで、「人類みな兄弟」と言う。
もう一つは、そのおじさんが法被を着て、拍子木を叩きながら、「戸締り用心、火の用心」と
言って街を練り歩くのだ。
そのCMに対して、イギリス人の友人が出口さんに「あれは矛盾している。
人類みな兄弟だったら戸締りは不要じゃないか」と指摘した。
出口さんは「なるほど」と思った。
「自分はこの二つのCMを知ってはいたが、それについて自分の頭で考えたことがなかった。
知識を持ったら、次に自分の頭で考えることが大事だ」と。
ということは、出口さんのこの話も鵜呑みにせず、自分の頭で考えて違う意見を言っても
いいだろう。
たとえば、「矛盾しているとは思いません。『人類みな兄弟』というのは理想です。
本来人類はそうなのだ、と・・・・。
しかし現実はそうなっていないので、『戸締り』も必要です。
あれは理想と現実を訴えているCMではないでしょうか」とか。
さて、この社説にも矛盾がある。
読書をすると教養が身に付き、それが自分の頭で考える力になるというが、
読書を全くしなかった冒頭の大学生は自分の頭で考えて意見を主張している。
一方、無類の読書家である出口さんでさえも自分の頭で考えずにCMを見ていた。
「1日の読書時間が0分という大学生が5割を越えた」ということは、とどのつまり
彼らが高校卒業するまで、人生を彩り、豊かにする「本の面白さ」を伝えた大人が
いなかったということだろう。
「面白いこと」「楽しいこと」も、誰かが伝えないと、知らないまま一生を終えてしまう。
面白いことは誰かに伝えよう。
「この本、面白いよ」の一言で相手の人生が変わることもあるのだから。
「本離れ!」「読書離れ!」
「おせっかいな人がいなくなった?」
今の時代によく言われる言葉です。
余計なお世話と言われないように・・・・・・・・・。なんて、遠慮するのは止めませんか!?
人間は「言葉以外」を察する生き物ですが、「言われなければ分からない!」
生き物でもあります。
「この本面白いよ!!」
「人生、面白いよ!!」
「何々、面白いよ!!」
そのように伝えられる人生を大人も歩みましょう!!
私自身も!!