2019/04/23 | 4月23日(火)人生そんなものじゃない? | | by 日進中学校管理者 |
---|
「みやざき中央新聞」より
先帝の末娘・女三の宮と光源氏が結婚した7年後、女三の宮はようやく懐妊します。
しかし、生まれてくる子の父親は柏木という青年だったことが発覚するのです。とんでもない事件ですね。彼は源氏の長男・夕霧の親友で、源氏も特に可愛がっていた好青年でした。
これを知ってしまった源氏は、さあどうしたものかと考えます。当然、柏木や女三の宮に怒りを覚えることもあったのですが、様々な思いに駆られたあげく、源氏は一切合切を飲み込んで黙っていようという結論に至るのです。
なぜか? 源氏はお父さん(桐壺帝)のことを思い出していたのです。
源氏が19歳の時、義母である藤壺の宮が皇子を産みました。その皇子は源氏から言えば弟なのですが、実は源氏と藤壺の子どもだったのです。
しかし、何も知らない桐壺帝にとっては孫のような年齢で生まれてきた子ですから、手放しで大喜びするのです。「小さい頃のお前によく似ているね」って。
そりゃ似ていますよね。源氏はもうお父さんの前にいられなくなって、早々に下がっていったと書かれています。
当時のことを思い出した源氏が、「ひょっとしたら、あの時父上も全てご承知の上で黙っていらっしゃったのではないか」と思う場面があるのです。
源氏物語を何度読み返しても、桐壺帝が真実を知っていたかどうか、恐らく作者である紫式部も考えていなかったと思います。私は、作者も物語を書きながら成長したのかなと思っています。
私も若くて生意気な年代の子どもを育てていた時、「あ、嘘ついてるな」と気付くことはよくありました。
しかし、「嘘つくな」と責めたところで根本的な解決にはなりませんから、黙って見ていることが多かったです。
そして、「若い時は親をうまいこと騙せたと思っていたこともあったけど、親は今の自分のように知っていたんじゃないか」と、自分が親の世代になったことで気付きました。
「あぁ、これって光源氏の思いと一緒やな」と思ったわけです。光源氏には全く似ていませんが(笑)。
紫式部は、光源氏という人間を通して「人生ってそんなものじゃないですか」と言っている気がします。
ほんの一コマですが、時が経ってようやく気付くこと、その時にふと抱く思いというものをつぶさに伝えてくるのです。
源氏物語に限らず、一つの「文学」に触れることで、「あぁ、人間ってこんな気持ちになることあるな」「そうか、これは昔から変わらない心のあり方だったんだな」と共感する。
すると、なんだか周囲がより豊かに見えてくる、なんてことはあると思うのです。それはひょっとしたら、人生の中の「幸せ」を構成する一つの要素かもしれません。
千年もの間、源氏物語が読み継がれてきたのは、時を超えて共感できるような、色あせない「人の心」を垣間見ることができるからではないか。私はそう思っています。
「本」は、いろいろな魅力がありますが、「人の心」を垣間見たり、人生のさまざまなことに
気づかせてくれたりします。
限られた人生、限られた時間の中で経験できることには限界があります。
だからこそ、「本」を読んで「豊かさ」に気づいている人といない人では・・・・・・・。
その「本」も読み方次第ですが・・・・・・。
よろしく!日中健児!!