哲学者/教育学者/熊本大学教育学部准教授 苫野一徳 より
私は哲学者・教育学者というのをやっています。
「哲学」と言うと、「勘弁してくれ、聞いただけで頭が痛い」とか「そもそも哲学って何なのかさっぱり分からない」という方もたくさんいらっしゃると思います。
哲学とは、誰もが納得できる物事の「本質」を洞察する学問です。
どういうことかと言うと、例えば「そもそも教育とは何か、それはどうあれば『よい』と言えるのか」といった物事の本質を徹底的に考え抜いて解き明かす。そして誰もが「なるほど、確かにそれは本質的だ」と唸ってしまうような優れた洞察にたどり着く―これが哲学の命です。
物事の本質が分かれば、そこを出発点にして「では、どのような教育を構想・実践していけばいいのだろうか」という思考ができるようになります。
逆に言うと、物事の本質が分からなければ、信念の対立だらけになってしまいます。私の専門である教育の現場ほど、信念の対立の場であるところは他にないと言ってもいいくらいです。
「子どもの自由活発な成長を後押ししたい」と思う人もいれば、「いやいや、まずは躾(しつけ)が大事なんだ」と考える人もいる。お互いの教育観が違えば、ただただ信念の対立になってしまうんですね。
でも、「そもそも教育は何のためにあるのか」という物事の本質が分かれば、「では、そのために私たちはどのように教育をつくっていけばいいのか」ということを、多様な意見を持ち寄り、協力しながらみんなで考えていくことができるようになります。もちろん「これが絶対正しい教育の本質」というものはありません。でも、その上でなお、できるだけ誰もが納得できる考えを見出し合うことが重要なのです。
●「自由の相互承認」
今回は「学校を作り直す」ということで、まず、次のことを皆さんと共有したいと思います。「公教育(学校教育)は市民社会の最大の土台であり、人類数万年の歴史における革命的な発明である」と。
公教育によって、全ての子どもが「自由」に生きるための力を育みます。それと同時に、全ての子どもが対等に「自由」な人間であるという感度(感受性)も育む―これが公教育の本質です。
この公教育の本質は、人類の命の奪い合いの歴史を通して、哲学者たちによって見出されたものです。
人類は、定住・農耕・蓄財が始まった一万年ほど前から戦争を続けてきました。
そこで哲学者は「どうすれば戦争をなくせるか」ということを考えてきました。これは哲学最大のテーマだったのです。
でも、全然答えが分からなかったんです。戦争が当たり前のようにそこかしこで起こるものですから、もう自然の摂理のように思うしかなかったんです。「神のおぼしめしだ」とか「天災と一緒だ」と考えていたんですね。
ところが、約250年前にヨーロッパの哲学者たちが戦争をなくす方法を編み出します。その中で立役者となったのがヘーゲルでした。
「『自由の相互承認』を原理(根本ルール)とした社会を築くこと。これ以外に、人類が『自由』に生きる道はない」。これがヘーゲルの出した答えでした。
地球上の生き物の中で、なぜ人間だけが戦争をなくすことができないのか。それは人間だけが「自由への欲望」を持っているからです。「自由への欲望」というのは「生きたいように生きる欲望」のことです。「自由」というのは「生きたいように生きられている」ということだと考えてください。
動物はおそらく「自由への欲望」を持っていません。本能にしたがって生きていて、「もっと自由になりたいぞー」みたいなことは多分思ってないです。だから動物の場合、争いが起こったら群れのボスが来てそこで争いは終わります。
一方、人間は「自由」を奪われることに耐えられません。奴隷でありつづけるのであれば、死んでもいいから「自由」のために戦う。これが人類の繰り返してきたことでした。
そして、このために人類は戦争をなくすことができなかったとヘーゲルは気付きました。
どうすれば誰もが「自由」に平和に生きることができるだろうか。それは「自由」をめぐる命の奪い合いではなく、お互いがお互いの「自由」を認め合う社会をつくる以外にない、ということです。
「自由の相互承認」とは、どんな生まれだろうが、どんな人種だろうが、どんな宗教だろうが、金持ちだろうが貧しかろうが、みんなが同じ「自由」な人間として認め合う。その上で、社会をつくっていくということなのです。
●三つの問い
あらためて、公教育は何のためにあるのかというと、全ての子どもに「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、全ての子どもが「自由」に生きられる力を育むためにあるのです。
このように、物事の本質が分かれば、ここから具体的なことを考えていくことができるようになります。
問いを三つ挙げます。
一つ目。現代において「自由」に生きるための力は何か?
二つ目。それはどうすれば育めるのか?
三つ目。「自由の相互承認」の感度はどうすれば育めるのか?
以上を念頭において、これからの学校をどのようにつくっていくかということを皆さんと考えたいと思います。
物事の本質が分からなければ、信念の対立だらけになってしまいます。
教育の現場ほど、信念の対立の場であるところは他にないと言ってもいいくらいです。そうなんです。教員は、みんな、自分自身の「教育信念」を持って教育を
しています。その信念は??
すべて、「譲ることのできない信念」だとするならば固い?ですよね。
また、「いつでも譲ることのできる信念」だとすると、それは「信念?」とは??
言えないのかもしれません。
子どもたちの話し合いも、先生方の話し合いも「対立」だらけです。
しかし、この対立から学ばないと社会は成立しません。
逆に言うと、「対立」を避けている、今の世代?が心配です。
人が2名以上集まれば、そこには、必ず「対立」があるのですよ。
特に中学生時代は、「対立」を恐れず、本質について話し合ってみては!
自分の殻に閉じこもる?だけでは、・・・・・・。
ただ、自分自身と向き合っても「2名の自分の対立」はありますが・・・・。
社会の形成者として、今が育ちざかりですよ!!
がんばれ!!日中健児!!
夏休みの「つぶやき」は、お休みさせていただきます。
随時、担当からは「連絡」をつぶやくと思いますが・・・・